2009年07月02日

日本語が生まれるほどの相対的平和状態を日本に

「自家優先主義」との批判もあるが、これにより結果的には260年以上続く長期安定政権の基盤を確立し、「天下泰平」という日本語が生まれるほどの相対的平和状態を日本にもたらした。

また、農本主義的に思われている家康だが、実際には織田信長、豊臣秀吉と同時代の人間であり、また信長の徹底的な規制緩和による経済振興策をその目で見てきていることからも、成長重視の経済振興派であった可能性が指摘されている。平和が招来されたことにより、大量の兵士(武士)が非生産的な軍事活動から行政的活動に転じ、広域的な新田開発が各地で行われたため、戦国時代から安土・桃山時代へと長い成長を続けていた経済は爆発的に発展し、高度成長時代が始まった。

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また江戸時代には、対外的には長崎出島での中国・オランダとの交流と対馬藩を介しての李氏朝鮮との交流以外は外国との交流を禁止する鎖国政策を採った(ただし、実際には薩摩に支配された琉球による対明・清交易や渡島半島の松前氏による北方交易が存在した)。バテレン追放令は、既に豊臣秀吉が発令していたが、鎖国の直接的契機となったのは島原の乱で、キリスト教と一揆(中世の国人一揆と近世の百姓一揆の中間的な性格を持つもの)が結び付いたことにより、その鎮圧が困難であったため、キリスト教の危険性が強く認識されたためであると言われる。またこの間、オランダが日本貿易を独占するため、スペインなどの旧教国に日本植民地化の意図があり、危険であると幕府に助言したことも影響している。中国では同様の政策を海禁政策と呼ぶが、中国の場合は主として沿海地域の倭寇をも含む海賊からの防衛及び海上での密貿易を禁止することが目的とされており、日本の鎖国と事情が異なる面もあった。しかし、日本の鎖国も中国の海禁と同じとして鎖国より海禁とする方が適当とする見解もある。 鎖国政策が実施される以前には、日本人の海外進出は著しく、東南アジアに多くの日本町が形成された。またタイに渡った山田長政のようにその国で重用される例も見られた。

2009年06月13日

実験物理学(じっけんぶつりがく,Experimental Physics)

実験物理学(じっけんぶつりがく,Experimental Physics)とは、実験や観測を通して自然現象・物理現象を理解しようとする物理学の研究方法のひとつ。理論物理学と対比される。特定の物理現象に関して物質の振る舞いを実際に観測、測定しその現象に特有な物理量ないしは物理量の変化を抽出して物質が従う法則を発見しようとするなどの研究がこれに当たる。物性分野や原子核、素粒子分野における人間のコントロールした環境下での典型的な実験ばかりではなく、宇宙物理学におけるようなコントロール不能な現象に対して、観測手段を工夫することによって特徴的な振る舞いを抽出しようとする試みも実験物理学の範疇に含めるのが普通である。

物理学における実験は大きく二つの場合に分けられる。ひとつは、これまでに誰も観測したことがないような現象をはじめて観測しようとする場合であり、もうひとつはすでに観測されている事柄について、その再現性を検証したり、さらに詳細に観測する場合である。
ハンドボール
ジーンズ
衛星
フラダンス
白地図
計算化学
茶道
フットバッグ
年金
船舶工学
免疫学
フードテーマパーク
生活習慣病
映画史
スクエアダンス
化学工学
ストリートダンス
地球
人形劇
生態系

これまでに誰も観測したことがないような現象をはじめて観測しようとする場合とは、たとえば素粒子物理学におけるエネルギーフロンティアの探求や宇宙物理学における深宇宙の探索などが挙げられる。物理学のたいていの分野に未探索な領域は残されている。

これまで誰も観測したことのない領域であるから、実際にどのような現象が観測されるかはやってみるまでわからないが、もちろんむやみやたらに実験をすればよいというものではない。たいていの場合は先にある程度の理論的予測があってそれを検証するために行われる。なぜならば、実験を行うには測ろうとする物理量と必要な精度についての具体的なプランが必要だからである。また、場合によっては巨額の資金を必要とするので、無意味な実験を行うわけには行かないという事情もある。ここでひとつ注意しなければならないのは、理論的予測から存在が予言されていたものを実験によって発見できなかった場合、その実験が失敗とは限らないということである。これはすなわちもとの理論自体に何らかの間違いがあった可能性を示唆しており、そのことを示すこと自身に物理学上の意義があるからである。

2009年06月09日

社会に感染者がいると伝染によって次々と

社会に感染者がいると伝染によって次々と感染者が増える可能性があることから対策には社会的な対応が必要となり、公衆衛生学などにより予防対策なされている。しかし伝染予防を目的として行われる隔離は患者の人権を制限するものであるだけでなく、患者への差別が生じて人権が回復しがたい侵害を受けてしまう場合もある。
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社会基盤に打撃を与えるほどの被害を及ぼした伝染病は疫病(えきびょう)と呼ばれる。歴史上はペスト、スペイン風邪などの重大な伝染病が流行して非常に多くの死者を出したことが有名である。また、天然痘は撲滅されるまでのあいだ長期にわたって全世界で死者を出し続けてきた。現代でもSARSの流行によるパニックは記憶に新しい。スマトラ沖地震の津波災害では熱帯気候による死体の腐乱により疫病の流行が懸念された。

古代ギリシアのペロポネソス戦争初期にアテナイを襲った疫病は指導者・ペリクレスを初めとする多くの市民を死亡に至らせて、劣勢(やがて敗戦)に追い込まれる一因となった。
日本では737年と995年に大規模な伝染病が都を直撃して(前者は天然痘、後者ははしかと推定)、政府高官が多数死亡して政治が麻痺状態に陥った。
14世紀のヨーロッパで流行したペスト。当時のヨーロッパ人口の3分の1が死亡した。
スペインかぜは1918年から翌1919年にかけ、全世界的に猛威を振るったインフルエンザの一種である。感染者6億人、死者4000?5000万人。

トリインフルエンザ:2005年、世界的に流行し養鶏業に大打撃を与えた。
馬インフルエンザ:2007年、流行の阻止のため日本では競馬や馬術競技の大会が中止された。

エンデミック(英 endemic)
一定の地域に一定の罹患率で、または一定の季節的周期で繰り返される状態を示す言葉である。その地域内で流行するため地方性流行とも略される。予測は可能で他の地域に広がってはいかない。感染症が原因の風土病もこの一種、特定の地域に限定される場合をいう(ただし感染症・伝染病に限定した言葉ではないので注意が必要)。
エピデミック(英 epidemic)
伝染病が予想されるエンデミックの範囲を超えて、急激に社会的に広がっていく(流行していく)状態を示す言葉がある。規模が大きくなった場合をアウトブレイクという。
パンデミック(英 pandemic)
さらに多国間にまたがって広範囲に散発的な広がりを示した状態を示す言葉である。

2009年04月25日

出エジプト記

『出エジプト記』(しゅつえじぷとき、英語:Exodus)は、旧約聖書の二番目の書であり、『創世記』の後を受け、モーセが虐げられていたユダヤ人を率いてエジプトから脱出する物語を中心に描かれている。モーセ五書(トーラー)のひとつであり、ユダヤ教では本文冒頭の言葉から『シェモース』と呼ぶ[1]。全40章から成る。
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エジプト脱出とシナイ山での契約が二つの大きなテーマとなっている。

エジプト脱出
ヤコブ後のエジプトにおけるユダヤ人の状況(1章)
モーセの物語(2章 - 4章)
ファラオとの交渉と十の災い(5章 - 11章)
民のエジプト脱出と葦の海の奇跡(12章 - 15章)
シナイ山への旅(16章 - 19章)
神と民の契約
十戒の授与(20章)[2]
契約の書(20章 - 23章)
契約の締結(24章)
幕屋建設指示とその規定(25章 - 28章)[3]
儀式と安息日の規定(29章 - 31章)
金の子牛(32章 - 33章)
戒めの再授与(34章)[4]
安息日と幕屋の規定(35章 - 39章)
幕屋の建設(40章)

成立
『出エジプト記』はエジプト脱出の物語に後から契約の内容と細かい規定が組み合わされて完成したと考えられている。モーセ五書の配列で『出エジプト記』の次にあたるのは『レビ記』であるが、『レビ記』は全編が宗教的規定に関しての書であるため、『出エジプト記』は内容的にはその次の『民数記』へ繋がっているといえる。

なお、22章18にある「呪術を使う女はこれを生かしておいてはならない」という部分が『欽定訳聖書』では「魔女」(witch)と訳され、この『聖書』が広く読まれたことで、魔女狩りの『聖書』における根拠とみなされることになった。

ちなみにキリスト教において旧約聖書という時、「旧約」すなわち古い契約というのはこのシナイにおける神と民との契約のことをさしている。


2009年04月07日

ジャズ・ロック

ジャズ・ロック(jazz rock)とは、音楽のジャンルにおいて、ジャズより発展した一つの演奏スタイルである。

1960年代に、アート・ロック、ブラス・ロックなどの、演奏技巧を主体としたロックミュージックが台頭した。それらの影響を受け、ジャズにおいても電気楽器(エフェクトを多用したエレクトリック・ギターや、エレクトリック・ピアノ)の使用によるロック風な奏法を取り入れ、新しい演奏スタイルが生まれた。これをジャズ・ロックと分類した。

スタンダードなジャズで既に名声のあった、マイルス・デイヴィスやチック・コリア、ハービー・ハンコックなどが先鋭的な試みとして、演奏に取り入れた。さらに、これが受け入れられて商業的に傾向していくクロスオーバー、フュージョンへと展開した。

ロック系のアーティストで最も盛んにジャズ・ロックの作品を発表したのはイギリスのソフト・マシーンなどのカンタベリー系アーティストである。一方1970年代前後にアメリカのジャズ・ミュージシャンより早く革新的なサウンド実験を試行したブリティッシュ・ジャズ(ジャズ・ロック系)のアーティスト群では、コロシアム、イアン・カー&ニュークリアス、イフ、マイク・ウエストブルック、ニール・アードレイ、グラハム・コリアー等の名が挙げられる。ジャズ系アーティストからのアプローチは先述したようにその後の発展があったのに対し、ロック系からのそれは1970年代後半に衰退した。

ドイツではMoodレコードから10人編成のユナイテッド・ジャズ+ロック・アンサンブルが1970年代後半から凡そ25年間活躍した。

代表的なアーティスト [編集]
マイルス・デイヴィス
チック・コリア
ハービー・ハンコック
パット・メセニー
ラムゼイ・ルイス
マハヴィシュヌ・オーケストラ
ソフト・マシーン
コロシアム
チェイス

マザーグ ロリータ あんずいろ ラウオル すないろ ブレザー ブリタ ブルジョア ドレス タジン スイート こるてーぜ ハザード ソフィア シャタカイ ロンド モーリ ルッコラ マジョル ドット 寒玉日本 フッラ アルマジ マドリード メーター ディレク 紅ほっぺ パパンサ スーツ きんしゃ チザン ミオシン ティン ドーマン ケイソウ きしょうてん スミレ ルーキー カムロ ハーフセ リフレッ オーバー おみたま ボジェット ヒイラギ スコー タチSEO マトーダ グッドア チェスト

2009年03月23日

臼ノ浦線(うすのうらせん)

臼ノ浦線(うすのうらせん)とは、長崎県北松浦郡佐々町の佐々駅から長崎県北松浦郡小佐々町(現・佐世保市)の臼ノ浦駅までを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線。1971年に廃止された。
サルカ おれたち レンソ ステキな レッスンプ モラル ハート バイオポ キックボ カーヒー テガシワ ビュル テープデ ブークレ バーキ ヒートシン カタル スノーソ シーディー スカラー ヒデリコ ステル トローチ ブレス カナリア プネー フリップ ジャイプ せんこう サミング セント レナン クジャク ダイレ リード ユーブ ピーク ぶるーべ ドライフ ドック フルガイド案 けーるナビ クローシス バーベル トロツ ビット ドラッグ 夢海峡 風のシア バスタ

路線データ(廃止時) [編集]
路線距離(営業キロ):3.8km
軌間:1067mm
駅数:2駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:

歴史 [編集]
もとは、臼ノ浦港から積み出す石炭の輸送のため佐世保鉄道が開業した軌間762mmの軽便鉄道で、1931年に開業した。1936年には買収・国有化され、国有鉄道松浦線の名無し支線となった。

その後、1944年に松浦線の改軌・路線変更が行われたことに伴い、松浦線本線との分岐を四ツ井樋から佐々に変更。1945年、松浦線の改軌工事完成に伴って、松浦線から分離し、臼ノ浦線となったが、沿線の炭鉱が閉山すると衰退し、キハ10000系気動車(レールバス)が細々と走る程度になってしまった。

1968年には、鉄道としての使命を終えたものとして、同じく松浦線の支線であった世知原線とともに赤字83線にリストアップされ、1971年に廃止された。

1931年(昭和6年)8月29日 【開業】佐世保鉄道 (実盛谷 - )四ツ指 - 臼ノ浦(2.9km) 【駅新設】四ツ指、黒石(停留場)、大悲観(停留場)、臼ノ浦
1931年(昭和6年)12月27日 【延伸開業】四ツ指 - 佐々(1.7km) 【駅新設】佐々
1936年(昭和11年)10月1日 【買収・国有化・線路名称制定】松浦線(一部) 【駅名改称】四ツ指→四ツ井樋、黒石→肥前黒石、
1944年(昭和19年)4月13日 【区間統合】佐々 - 臼ノ浦 【駅廃止】肥前黒石、大悲観
1945年(昭和20年)3月1日 【路線分離】臼ノ浦線 佐々 - 臼ノ浦(3.8km) 【駅廃止】四ツ井樋
1971年(昭和46年)4月1日 【貨物営業廃止】全線(-3.8km)
1971年(昭和46年)12月26日 【路線廃止】全線(-3.8km)
現在、廃線跡は道路や住宅に転用されたが、佐々駅以西の松浦線併走区間や佐々川を渡っていた橋の橋脚が残っている。臼ノ浦駅舎は取り壊され港町公民館となったが、土台の部分はそのまま利用されたので残っている。

2009年03月08日

大西洋貿易の影響と東ヨーロッパ

大西洋経済圏の形成は、ヨーロッパ内部の経済構造にも大きな影響を与えた。中世以来の地中海、バルト海を舞台とする商業活動に大西洋貿易が加わり、やがて貿易量や扱う産品の重要性において前者を圧倒、イタリアや南ドイツの諸都市にかわってリスボンなど大西洋に面した都市が繁栄することとなった。大西洋貿易の中心となった西ヨーロッパでは、生産の促進と雇用の増大がみられ、毛織物生産や火器、雑貨、造船を始めとする工業やコムギを主とする農業が共に活性化し、その後の資本主義の展開の土台が形作られた。

その一方で、エルベ川以東の東ヨーロッパ、とくにバルト海沿岸地域では、拡大する西欧経済からの穀物や木材の需要に支えられ、領主が農奴を使役して西欧向けに穀物を作らせる農場領主制(グーツヘルシャフト)が発展した。これは農奴制の創設および強化を意味しており、その結果、ムギと木材は西欧に輸出され、対価として領主たちは西欧の工業製品を購入した。東欧経済は西欧に対し従属的な位置におかれることとなるが、農場経営者である領主貴族には富がもたらされた。
ナビワジ マーモ リカー 一刻千金 トベラ シャン フック トロピ アームロ サリドマ ビーツ ヨーク アンダー みみず クマザ ワラルー レース 結の的 サーチ バルコニー スキタイ ナビ凪笛 ドライアイ ぬくもり ローラム サンゴ トポロ ソナタ レモンバ ブリーフ ソバ国内 ボイル キキーモラ リーブ オブザ スルタン けんばん 水たまり トパーズ ムンク セラミド シーレー よいち シロップ ふだい プライ サルベージ ショート ファジー ファーム

西ヨーロッパで生産された毛織物はアメリカ大陸の植民地にも送られた。アメリカ大陸の銀は、スペインによって拓かれたアカプルコ=マニラ航路などの太平洋航路によってアジアに送られて香辛料などと交易され、その結果、毛織物工業は西ヨーロッパにおける基幹産業となっていった。15世紀末から17世紀前半にかけてのイングランドでは、牧羊地の確保のために第一次囲い込みがおこなわれ、多くの農民が土地を失った。トマス・モアはこのことを、主著『ユートピア』で「羊が人を食う」と批判した。

「太陽の沈まない国」スペインのハプスブルク帝国において、その経済の中心は毛織物生産のさかんなネーデルラントだった。イングランドやフランスにおけるカトリック勢力に対するスペインの支援は混乱をまねき、属領ネーデルラントの商人や貴族のあいだにはプロテスタント(カルヴァン派)の信仰が浸透した。スペイン本国の産業は基盤が脆弱であり、アメリカで獲得した富はネーデルラントに流出していった。

対抗改革(反宗教改革)の中心だったスペインは、フェリペ2世の時代にカルヴァン派の商工業者の多いネーデルラントに旧教を強制したため、それに反発した人びとの間に八十年戦争がおこって、しだいにスペインの支配から離反していった。ネーデルラントのカルヴァン派はゴイセン(「乞食」という意味)と呼ばれた。スペインはアルマダの戦いでイギリスにやぶれ、フランスとの間の西仏戦争にも敗退して、17世紀には衰退に向かっていった。

北部ネーデルラント7州は、スペインとの戦争中の1581年に連邦共和国として独立を宣言し、17世紀はじめに事実上の独立をはたした(オランダ)。共和政オランダはヨーロッパの経済活動の中心となり、1602年、アジア貿易に従事する諸会社を統合し、世界最初の株式会社であるオランダ東インド会社を、バタヴィアに政庁を置く総督の下でオランダ領東インドに設立し、同社を先頭に、さかんに海外に進出した。

相前後して1600年にはイングランドがイギリス東インド会社を設立した。これはエリザベス女王より貿易独占権を付与された会社だったが、ここでは、17世紀半ばまでは一航海ごとに出資者に利益を分配するしくみをとった。

イングランドとオランダの両国は豊臣政権から権力を奪取した徳川家康に接近し、日本におけるスペイン、ポルトガルの権益を奪い取っていった。とりわけ、オランダは1623年、モルッカ諸島のアンボイナ島でイギリス商館の日本人傭兵がオランダ商館のようすを探っていたとしてアンボイナ事件を起こし、イギリス勢力の駆逐に成功すると、キリシタン勢力の糾合による倒幕を恐れる徳川幕府に巧みに接近し、島原・天草一揆に前後して、スペイン、ポルトガルの勢力を日本から追い出すことに成功して、長崎の出島において対日貿易の独占を果たした。

オランダは、アジアへの重要中継点をポルトガルからうばい、ジャワ、スマトラ、モルッカを植民地とし、香料貿易をさかんに行って、1619年、その拠点をジャワのバタヴィアに置いた。さらに、台湾南部のゼーランディア城(1624年)、北米のニューアムステルダム(1626年、オランダ西インド会社の設立は1621年)、南アフリカのケープ植民地(1652年)、南アジアではセイロン島のコロンボ(1656年)などを拠点に海外に勢力を拡大した。タスマンによる南太平洋探検(1642年-1644年)もおこなわれた。

オランダの繁栄は主として、中国やインド、ヴェトナムの生糸を日本に運んで銀・銅を入手し、それを元手に香辛料・砂糖・茶・陶磁器などのアジア産品を獲得して、アジア各地、イスラーム世界、ヨーロッパに転売したことによる。このオランダの隆盛を「覇権」と呼ぶことができるかどうかについて意見が分かれている(世界システム論#ヘゲモニー参照)。山下範久も、ポルトガルやイギリスがヨーロッパ・アジア間の交易にこだわったのに対し、オランダの場合はアジア域内の貿易量が欧亜間のそれよりもはるかに多いことを示し、近世のヨーロッパおよびアジア帝国の完結性に穴をうがった域際的性格の強いものだったことを指摘している[3]。また1630年にはペルナンブーコ州などブラジル北東部沿岸4州なども奪い、アジアから持込んだサトウキビのプランテーションを経営した。その繁栄は必ずしも長続きしなかったが、オランダが香辛料以外のアジア産品の重要性に気づいたことや、アメリカ大陸および西インド諸島でサトウキビの大農場経営を展開したことはヨーロッパ諸国を刺激し、各地の経済を大きく変えていく契機となった。

こうしてオランダは17世紀前半には商業・金融・海運などの分野で覇権をにぎり、バタヴィアを拠点とするアジア内貿易、ケープとセイロンに拠点を有したインド洋での中継貿易、大西洋三角貿易、バルト海貿易のいずれにおいても圧倒的な競争力をもち、自由貿易を推進していった。首都アムステルダムは、リスボンにかわって西ヨーロッパ最大の商業・金融都市として繁栄した。1630年当時、オランダが保有した商船の数は全ヨーロッパの商船の約半数に達した。なお、1634年から37年にかけては、アムステルダムでトルコ産チューリップの球根栽培の権利取引が過熱化し、球根1つに邸宅2戸分に相当する値がついたという。このことを、チューリップ・バブルと呼んでいる。

オランダの勃興は、芸術面でも新しい動きを生んだ。ルーベンスやヴァン・ダイクなどフランドル派と呼ばれたバロック作家が宗教画や肖像画を多く描いたのに対し、オランダ画派に属するレンブラントは市民生活や風物を多く描いた。ヨハネス・フェルメールやピーテル・デ・ホーホもまた、オランダ黄金時代の風俗画家として知られる。

2009年02月19日

ネェル・アーガマ

ネェル・アーガマ(Nahel Argama)は、TVアニメ『機動戦士ガンダムΖΖ』及び小説『機動戦士ガンダムUC』に登場する架空の艦艇。エゥーゴ→ロンド・ベル所属の宇宙戦艦である。
宇宙世紀0088年11月にアナハイム・エレクトロニクス社グラナダ工場が大型艦船シェアの奪取を目論んで建造した戦艦である。 事実上はじめて[1]モビルスーツ運用を念頭において設計された機動戦艦で、一年戦争時に活躍したペガサス級強襲揚陸艦ホワイトベースの意匠を、強く引き継いでいる。アーガマ級強襲巡洋艦をそのまま拡大したスタイル、5基装備されたカタパルトなど、それまでの連邦戦艦を一新した設計思想は後のヴィックウェリントン社が設計建造した戦艦「ラー・カイラム」級機動戦艦に通じるものがある。しかし、この時期地球連邦軍は大規模な艦艇建造に興味を示しておらず、一番艦「ネェル・アーガマ」のみが建造され、実戦を経験した。これには、この艦そのものに実験的要素が大きかった可能性も考えられる。
セタノール スタッフ 青空の破片 シロキ システム シャリ フレッシュ 星空 レビュー スケープ レター セラピスト ウォータ 雪化粧南瓜 ヤンゴン マリン フリマ ジンゲス ひえい リヤド 大冒険ニュ ポポポ ハート なご セレシン ジンク ネーチャー ブル スティック スポーツ リトル ショート システ フリー 砂漠のバラ ブジー コスメ クリーム トロメア うぇあ あしげ プロペラ ナイフ ショッキ キュート イング スタメン チャ・チャ バラクーダ ローブチ

アーガマに代わるエゥーゴ旗艦として開発され、アーガマの長所であるモビルスーツ運用能力を大幅に向上させるため、前方にカタパルトを上方に3基、下方に2基、後方に着艦用デッキを1基装備しており、ΖΖガンダムを3機に分離した状態で同時に発進させる事も可能。MS搭載機数は、上下左右サイドデッキには当初は各2機・改修後は各3機、メインデッキは4機。エンジンブロックから四方に展開した4本のアームは折りたたみ可能な「カウンタースラスター」であり、MSがカタパルト発進した際の反動を打ち消す目的で船体重心から離れた位置に4基装備されている。また、艦中央から左右に伸びる主翼部分は、折り畳み式であり太陽光ソーラーパネルが内蔵されハイパーメガ粒子砲や、メインエンジンにソーラーエネルギーを供給している。

また、アーガマの欠点だった火力の不足もハイパーメガ粒子砲などの多数の火器を装備することで克服している。操艦や砲の操作などは、コンピューターのサポートにより全てブリッジからコントロールする事もでき、艦単体の戦闘だけに限定すれば最低5名ほどで戦闘可能である。[2]。 「強襲巡洋艦」だったアーガマ級とは異なり、竣工直後は「機動戦艦」にカテゴライズされていた。ただし、ロンド・ベル編入後「強襲揚陸艦」となっている。地球連邦軍「ロンド・ベル」発足の際 行われた部隊編成完結式及び観艦式に参加していた観閲官で在り、 同隊創設の立役者、連邦政府高官であるジョン・バウアーが、同隊の実戦部隊として対抗しうるだけの組織への編成を提案・実施した。 その際、ネェル・アーガマに与えられた艦籍番号がSCVA-76である。 他のアイリッシュ級戦艦数隻も同様艦籍番号が与えられてる。その為地球連邦軍内部では、その外観からロンド・ベル編入時に、サラブレッド級(別名・準ホワイトベース級)の5番艦とされている。 宇宙世紀0096年時の乗員数は400名余りである。


「ネェル・アーガマ」とは「アーガマに近いもの」という意味。

宇宙世紀0089年2月、第一次ネオ・ジオン抗争終結後、修復されたΖΖガンダム、Ζガンダム、百式、ガンダムMk-II、メガライダー共々地球連邦軍超機密秘匿扱いとされ、この艦の最終配属先は不明のままという説もあり、ビーチャ・オーレグらが第一次ネオ・ジオン抗争終結後にこの戦艦を貰おうと考えていた。しかし、宇宙世紀0090年3月21日付地球連邦軍・独立新興部隊「ロンド・ベル」発足と同時に初代旗艦として「ロンド・ベル」に編入される。ゲームブック『シャアの帰還』では後にエゥーゴを基盤に結成される地球連邦軍・独立新興部隊「ロンド・ベル」の初代旗艦として就役している姿が描かれた。宇宙世紀0092年12月25日。以後、ラー・カイラム就役と同時に、旗艦の座を移譲する。 宇宙世紀0093年3月、アナハイム・エレクトロニクス社グラナダ工場にて、大規模近代化改修が施される。

宇宙世紀0096年を舞台とした『機動戦士ガンダムUC』でもロンド・ベル所属の艦として登場している。かつてグリプス戦役・第一次ネオ・ジオン抗争が起こった際、正規の国防計画を通さずに設計・建造された艦であるため、同型艦の存在しない互換性のなさ、取り回しの悪さから艦隊編成にも組み込まれず、同作中においては大規模近代化改修が施されたものの主に単艦運用されている。なお改修時、各部機材をクラップ級に使用されているタイプに変更したので運用には問題はない。推進器周りの形状がクラップ級のそれに近い形に変化している。MS搭載量も増えており、ZZを運用した経験(もともと規格外の試作MSの運用も前提とされていた為、)からか整備運用システムの拡張性が高くなっており、新規MSをスムーズに受け入れ可能である。総合的に機能・性能・外観はホワイトベースに近くなっており、ネオ・ジオンからは木馬もどきと呼称される。

搭載MS・兵器には、ネェル・アーガマ艦載機である事を示す「NA」のコードが機体に描かれている。

なお、オリジナルデザインは明貴美加、『機動戦士ガンダムUC』版はカトキハジメによるデザインである。

搭載武装
ハイパー・メガ粒子砲
直径20m強に及ぶエネルギーコンデンサを含めると全長50m、口径18mというあまりの大きさから艦内に納めることが出来ず、メインカタパルトデッキの直下、艦底部にむき出しになる格好で配置されている。理論上、コロニーレーザーに匹敵する威力を持つ、拠点攻撃用兵器。一撃で大型戦艦を葬れるのは無論のこと、照射角の変更次第では一艦隊を消滅させるだけの威力を持つ。
ただし、一回の射撃で艦の全動力を消費し尽くす燃費の問題があり、他のメガ粒子砲が使用不可となるほか、操舵すらおぼつかなくなる。連射性能はなく、一度の戦闘で使用できるのは一回が限度。
サブ・メガ粒子砲
ホワイトベース級、アーガマ級と同じように船体側面のシャッター部に収納された大型メガ粒子砲。
対空機銃座×16
改修時からの追加装備。対MS及び航空航宙機迎撃用兵器。
単装ビーム砲×2
左右のMSカタパルトデッキ前方端に配置されている。砲身に比べて砲塔サイズが小さいという特徴を有する。
単装副砲×2
後方上下に配置された単装メガ粒子砲砲塔。アーガマ級、アイリッシュ級に装備されているものと同じである。
2連装メガ粒子砲×2(改装時)×4
前方上下に配置された連装メガ粒子砲砲塔。アイリッシュ級に装備されているものとはデザインが異なる。

劇中での活躍
『機動戦士ガンダムΖΖ』の後半にて、アーガマに変わるガンダムチームの拠点として登場する。指揮は引き続きブライト・ノアが執ったが、ブライトが連邦軍との会談のためにフォン・ブラウンへ赴いて以降はビーチャ・オーレグが代理を務めた。

2009年02月03日

吉良氏(きら)は日本における武士の名家の一つ

吉良氏(きら)は日本における武士の名家の一つであり、代表的なものに下の三つの流れがある。

清和源氏足利氏支族の吉良氏(長氏流)。三河吉良氏。
清和源氏足利氏支族の吉良氏(義継流)。奥州(武蔵)吉良氏。
清和源氏為義流の吉良氏。土佐吉良氏。
大航海 だいこん バント しじょう ハレー ポル国内 トップス アッチラ シャボン ラゴン リーマン ラグソール ラセボ カスト ボール リリヤン レーション マッシ セレナ インター キルン バターク ロスメン ダルコ スキャ イチク スピッ シック ジッグ アグラ ラストシ オフサイド ローアン ソース ノズル ジラフ ヱスビ ラインビ ガスボンポ テミズム マスター てんゆう スカーフ ストライ ション スト ロース バミュー デル チョウゲ

清和源氏足利流吉良氏
本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む足利氏の支流である。 足利義氏の庶長子 吉良長氏及びその弟 吉良義継より出る。兄 長氏の家系は『三河吉良氏』となり、弟 義継の家系を『奥州吉良氏』という。

吉良氏は足利一門において名門中の名門とされ、「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで言われ、足利将軍家の血脈が絶えた際に足利宗家の家督を継承する格式が許されていた。

ただ、三河でも奥州でも家格の高さに武力が伴わず、家運は低迷。大名としての存続は断たれた。しかし両系統は江戸時代に家名を繋いでいる。  (それぞれの家系については、以下に詳述)

三河吉良氏
鎌倉時代
13世紀の頃、足利義氏の長男・長氏が三河国碧海郡吉良荘(現・愛知県西尾市・幡豆郡)を本拠としたのを契機に、「吉良」を名乗りとしたことに始まる。当時の吉良荘は古矢作川の東西にも広がっていたため、川の東西をそれぞれ「東条」(城は現幡豆郡吉良町大字駮馬〈まだらめ〉字城山)・「西条」(城は現西尾市)と区分して呼んでいた。長氏が拠ったのは、この西条の方であり、以降しばらくこの系統は西条吉良氏と呼ばれる。なお、この三河国吉良荘の吉良の語源は、荘園内に雲母(大和言葉で「きらら」)の鉱山を古くから有したためにつけられたものと言われている。

承久の乱以降、足利氏は三河国内に多くの所領を得たが、長氏の吉良氏はその中でも総指揮・監督権を委ねられる立場にあり、足利宗家から深い信頼を受けていたことがわかる。

後代、渋川氏・石橋氏の両家とともに「御一家」と称されて別格の扱いを受けたことや、「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」という序列観が人々の間に定着したのも、こうした背景があってのことであった。しかし実際には、足利将軍家には鎌倉公方、古河公方、堀越公方などの別家が多くあり、吉良氏が足利本家を継げる可能性は低かった。

長氏の子満氏は霜月騒動で安達泰盛に与し、北条氏による討伐を受けて戦死。その子貞義は元弘3年(1333年)、後醍醐天皇方の勢力討滅の命を帯びて上洛途上の足利高氏が三河国に逗留した際、貞義は「天皇について鎌倉幕府打倒のために立ち上がるべきである」と強硬に進言。これが最終的な引き鉄となって高氏は六波羅探題攻撃に踏み切り、鎌倉幕府崩壊劇の嚆矢となった。

南北朝時代から室町時代
貞義の子満義は観応の擾乱で足利直義に与し、嫡男満貞とともに各地を転戦、一時的に南朝にも帰順した後、最終的に室町幕府に降る。吉良氏初代 長氏の隠居所として築かれた館は「丸山御所」と称された。しかし、吉良氏自体は京都にあって将軍家の近臣として仕える他は三河や武蔵にあって守護職を世襲することもなく実質的には小領主としての勢力しか持たなかった。

満義・満貞父子が本拠地の吉良荘を留守にしている間に、満義の四男尊義が吉良荘の東条を押領し、東条吉良氏として自立するという事件が起きる。以降尊義の東条吉良氏と、西条に勢力を限定された満貞の西条吉良氏とは、互いに正統性を主張しあって譲らず、両者の子孫が約一世紀に渡って三河一国を舞台に抗争を繰り広げた。応仁の乱においては西条家の義貞が東軍、東条家の義藤が西軍にそれぞれ属して戦っている(なお、吉良氏発祥当時に区分された定義(2.の義継流吉良氏が東条吉良氏、1.の長氏流吉良氏が西条吉良氏を称した点)とは、別物。ここでいう東条・西条吉良氏とは区別が必要である)。

戦国時代
三河吉良氏は勢力の振るわない上に、西条吉良氏と東条吉良氏に分裂した内部抗争を収束させなかった為、家運を一段と低迷させていた。その間に、庶流である駿河守護 今川氏からの圧迫を受けたのである。西条吉良の義尭の頃であり、遠江国の拠点である引間荘を奪われている。

この期に及んでようやく同族抗争の愚を悟った東条・西条両家は、東条吉良の持広が西条吉良の義安を養嗣子にするという形で和議を成立させ、長年の抗争に終止符を打った。享禄・天文初年間のことである。義安は今川氏への対抗上、同じく今川氏と抗争中にあった尾張国の織田氏に加担し、防衛体制を整えていく。しかし、長年の抗争で衰退させた家運の回復までには至らず、天文18年(1549年)に今川義元の猛攻に敗退。捕らえられた義安の身柄は駿河に抑留された。

その後の吉良氏は、後継に西条から義安の実弟義昭が今川氏によって捩じ込まれ、家名存続を許された。すなわち独立領主としての吉良氏ではなく、今川義元への隷属を強いられた訳である。

ところが、桶狭間の合戦で義元が討ち取られた後は、今川氏も徐々に衰退してしまう。吉良氏は三河国の支配を目指す松平家康(のちの徳川家康)と対立。善明堤の戦いや藤波畷の戦いを経て、家康に降伏する。その後、三河一向一揆が勃発すると一向一揆方に加担して、再び家康と戦った。しかし、一揆方は家康に敗れ、吉良氏の家運衰退に拍車がかかることになった。

これほど家運も振るわず困窮していながら、足利一門における名族中の名族たる誇りだけは強かった。織田信長の周旋により、尾張守護の斯波氏及びその一門 石橋氏と同盟を結ぶまでに漕ぎ着けた。ところが、斯波義銀と席次を巡る争いを起こしている。斯波氏もまた、足利将軍家一門中将軍家や吉良氏に並ぶ名族であった。

江戸時代
義安の子義定が松平清康の妹を母としていた関係で徳川氏に取り立てられ、その子義弥の代に至り旧吉良荘内で3000石を領して、高家筆頭の家格を付与された。これ以降の吉良氏は江戸幕府の儀典関係を取り仕切る家として存続する。

義弥の孫義央が、儀典の指導に関して浅野長矩との間に確執を生じ、元禄赤穂事件に発展したことはよく知られている。同事件においては隠居していた前当主義央が殺害されたばかりか、騒動の責任を問われて嫡孫の当主義周が改易の憂き目にあった。

降って享保17年(1732年)、義央の弟の孫に当たる義孚が東條家から吉良家への復姓を幕府に願い出て許されている。

歴代
吉良長氏
吉良満氏
吉良貞義
吉良満義
(西条吉良)(東条吉良)

吉良満貞  吉良尊義
吉良俊氏  吉良朝氏
吉良義尚  吉良持長
吉良義真  吉良持助
吉良義信  吉良義藤
吉良義元  吉良持清
吉良義尭  吉良持広
吉良義郷  荒川義広
吉良義安
吉良義昭
吉良義定
吉良義弥
吉良義冬
吉良義央
吉良義周

奥州(武蔵)吉良氏
本姓は源氏。前項の吉良氏の同系。

足利義氏の四男・義継が、兄長氏と同じく三河国吉良荘を本拠とし、「吉良」を名乗りとしたことに始まる。長氏が同荘西条に拠ったのに対して義継は東条を領し、東条吉良氏とも呼ばれた。東条の城は東条城で、場所は現在の幡豆郡吉良町大字駮馬(まだらめ)字城山である。

南北朝時代
貞家が成良親王の廂番から奥州管領(奥州探題の前身)にまで出世し、陸奥多賀城に拠って足利政権の奥州統治の要となる。その後、観応の擾乱が勃発すると直義方に属し、同じく奥州管領で尊氏方に与した畠山国氏を攻め滅ぼすが、その隙に勢力を伸張してきた南朝の北畠顕信に多賀城を攻め落とされる。以後、再び勢力を回復して顕信に挑むも死去。子の満家が奥州管領となって、畠山国氏の子国詮や奥州総大将石塔義房の子義憲と争う。その間、中央で直義の殺害に成功した尊氏は、斯波家兼を新たな奥州管領として派遣したため、この斯波家兼が奥州における最有力となる。満家の死後、子の持家が跡を継ぐが、幼少のため、貞家の弟貞経と貞家の子で満家の弟治家が争った。貞治6年(1367年)、足利義詮は斯波直持と吉良貞経を奥州管領として治家を追討するように命じ、さらに石橋棟義を派遣してきた。治家は敗れ没落する。その後、奥州吉良氏は振るわず、衰退の一途を辿る。

室町時代
滅亡の危機に瀕した奥州吉良氏であるが、初代鎌倉公方の足利基氏から招かれた治家が上野国飽間郷に移住すると、徐々に勢力を回復し始める。

鎌倉公方家に仕えた奥州吉良氏は、公方と同じ足利氏の流れを汲む家として「鎌倉公方の御一家」という別格の扱いを受け、「足利御一家衆」「無御盃衆」と称された。成高の代に武蔵国荏原郡世田谷(東京都世田谷区)に世田谷城を構え、同地に土着。以降、拠点を変えるたびに「蒔田御所」、「世田谷御所」、「世田谷殿」と呼ばれた。

戦国時代から安土桃山時代
関東の覇者となった後北条氏に取り込まれて傀儡化した古河公方とともに、こちらも政略結婚を通じて北条氏の傘下に入った。成高の子頼康は北条氏綱の娘と結婚し、武蔵国久良岐郡蒔田(神奈川県横浜市南区)をも領して「蒔田殿」と呼ばれ、後北条氏分国内に在りながら独自の印判状を用いることを許された。

頼康は堀越氏(今川氏の一族・遠江今川氏の直系)から氏朝を迎えて養子とし家督を譲るが、この氏朝の代に豊臣秀吉の小田原攻めによる後北条氏の滅亡に遭い、庇護者を失って旧領世田谷に篭居する。

江戸時代以降
徳川家康に従うようになると家格の高さを認められ、高家として取り立てられた。この頃から、蒔田氏として正式に改称している。これは、今川氏庶流で知られる品川氏と同様の理由が考えられている。

江戸中期では、元禄赤穂事件によって三河吉良氏が断絶したことを契機に、「吉良」に復姓した。

なお、豪徳寺とは、一族の吉良政忠が世田谷城の域内に創建した弘徳院が前身であり、寺内には吉良一族の墓を見ることができる。

明治に至り、知行地であった千葉県長生郡寺崎に移っている。

歴代
吉良義継
吉良貞家
吉良治家
吉良成高
吉良頼康

三河吉良氏・奥州(武蔵)吉良氏系譜
凡例 太線は実子、細線は養子。 婚姻関係は正室のみ。
   *は同一人物

                       足利義氏
    ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┓
   吉良長氏                足利泰氏  吉良義継
  (三河吉良氏)                   (奥州吉良氏)
    ┣━━━┳━━━━━┳━━━━━┓         ┃
     満氏 今川国氏 土御門顕方室 上野義有室      経氏
    ┣━━━┳━━━━━━━┓             ┃
     貞義 荒川貞弘   畠山時国室           経家
    ┣━━━┓                     ┣━━━┳━━━┓
     満義  助時              貞家  貞経  氏家
    ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓     ┏━━━┫   ┃
     満貞 一色有義 尊義 岡山満康 橋田満長   満家  治家  豊宗
    ┣━━━┓   ┃             ┃   ┃
     俊氏 斯波義将室 朝氏            持家  頼治
┏━━━╋━━━┓   ┃                 |
義尚  頼氏  義真  持長                頼氏 
┃       ┃   ┣━━━┓             |
斯波義健室   義信  持助  頼高            頼高
         ┃   ┣━━━┳━━━┓         ┃
         義元  義藤  等康  端東        政忠
    ┏━━━┫   ┃                 ┃
     義堯 一色氏明 持清                成高
┏━━━╋━━━┓   ┣━━━┓             |
義郷 *義安  義昭  持広 荒川義広           頼康
    ┣━━━┓       |             |
氏真娘=義定 今川範以室   *義安            氏朝 
     ┣━━━┳━━━┓                 ┃   
範以娘=義弥 荒川定安 定堅               蒔田頼久
    ┣━━━┓   
    義冬 岡山弥清
    ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓
    義央                 東条義叔    東条義孝*冬貞 *冬重  孝証
    ┣━━━┯━━━┳━━━━━━━┓   ├──────┐    |
   上杉綱憲*義周 島津綱貴室  津軽政兕室*冬貞  義武 *冬重 
    ┃                       |
   *義周                     吉良義孚

土佐吉良氏
本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系河内源氏の棟梁 源義朝の男子にて、源頼朝の同母弟 希義を祖とする。

希義の次男希望が、頼朝より土佐国吉良荘(高知県高知市春野町)を賜り、「吉良八郎」を称したことに始まる(一説には希義の長男隆盛の系統ともいう)。鎌倉時代は北条氏の被官的存在だったが、希望より六代後の希世・希秀兄弟が後醍醐天皇に仕え、元弘の乱における六波羅探題攻略に功があった。以降しばらく、四国における南朝方の雄として、伊予の河野氏らと行動をともにする。

しかし希秀の子希雄が土佐守護細川氏の傘下に走って以降は北朝方となり、南朝方の篭る大高坂城(現在の高知城)の攻撃に参加するなどしている。応仁・文明期には、宣通が細川勝元の将として上洛、応仁の乱においてそれなりの軍功を立てたという。

宣忠の時、本山、大平、山田などの諸族とともに長宗我部兼序を攻め滅ぼし、勢力を拡大する。細川氏が力を失った後の土佐においては土佐一条氏を奉じ、宣経の時に一条氏から伊予守に任ぜられ最盛期を迎えた。宣経は天文年間に周防から宋学の第一人者・南村梅軒を招きいれ、土佐南学の基礎を築いた。

宣経の死去後家督を継いだ宣直の頃、土佐中央部に進出してきた本山氏と土佐西部の一条氏に挟まれた状況を打開するため一条氏と結んだ。 天文9年(1540年)本山茂辰は宣直が仁淀川に狩猟に出かけた隙を狙い、吉良城を落城させ仁淀川にて宣直を討ち取る。 ここに源姓土佐吉良氏は滅亡する。吉良城を落とした本山茂辰は、土佐において名族であった吉良姓を称することとなる。

この他吉良氏滅亡には諸説あり、『吉良物語』においては永禄六年(1563年)に長宗我部氏に攻められ滅亡したとされ、他に永禄5年(1562年)に本山氏に攻められ滅亡したとする説もあるが、資料や本山茂辰の吉良姓僭称から信憑性は薄い。

永禄末年頃、本山氏を降した長宗我部元親は、自らの実弟にして宣直の女婿である親貞をして吉良氏の名跡を継がせた。親貞は一門の実力者としてよく元親を補佐したが、その子親実が謀叛の嫌疑を受けて殺され、長宗我部氏支族としての土佐吉良氏も二代で滅亡した。

歴代
吉良希望
吉良宣経
吉良宣直
吉良親貞
吉良親実

土佐吉良氏系譜
凡例 太線は実子、細線・二重線は養子

源義朝
 ┃
源希義
 ┣━━━┓
吉良希望 隆盛?
 ┃
希仁
 ┃
希綱
 ┃
(数代略)
 ┃
希行
 ┣━━━┓
希世  希秀
 │
希秀
 ┃
(数代略)
 ┃
希定
 │
宣実
 ┃
宣安
 ┃
宣方
 ┃
宣家
 ┃
宣玄
 ┃
宣通
 ┃
宣忠
 ┃
宣経
 ┃
宣直
 │
親貞(宣直娘婿、実父は長宗我部国親)
 ┃
親実

2009年01月20日

ワンダーフォーゲル

ワンダーフォーゲル(独:Wandervogel)は、戦前期ドイツにおいてカール・フィッシャーらがはじめた青少年による野外活動である。またそれを元にする野外活動を率先して行おうとする運動。1896年にベルリン校外のスティーグリッツのギムナジウムの学生だったカール・フィッシャー[1]がはじめた。

その思想の一部を受け、日本でも(主に)大学のクラブ・サークル活動の一環として野外活動を主とする部が発展した。これらの活動もワンダーフォーゲルと呼び、ワンゲルと略したりする。ただし、日本のワンダーフォーゲル部にある、山岳部の亜流(第2山岳部)もしくはかなりのハードなトレーニングをする山岳部という意味は、ドイツのワンダーフォーゲル運動にはなかった。

19世紀後半のドイツにおいての急激な近代化に対する広い意味での自然主義の高揚を背景としている。

はじめ、フィッシャーらは男の子ばかり郊外の野原にでかけてギターを弾き、歌を歌った。そのうち、グループの緑の旗が出来たり、男の子は半ズボンに、ニッカーボッカーのようなスタイルになり、女の子も参加するようになる。

Wandervogelは直訳すれば「渡り鳥」の意味である。1901年運動のメンバーの一人、ヴォルフ・マイネンが、運動の中心が歌を歌うことだったので、ワンダーフォーゲルと名づけた。鳥、つまりさえずるという意であると同時に、社会の固定された規範から自由でありたいという願いが込められている。

運動の消滅とナチズム
1910年代にはドイツ全土に広がるが、時は第一次世界大戦に入り、ワンダーフォーゲルは、戦争忌避的な個人主義、個人の享楽主義のようにとられ、好ましくないとの批判が出てくるようになり、関連の団体、グループ13団体が、ホーエン・マイスナーに集合し、「自由ドイツ青年」という団体を結成する。戦争の進展と共に運動の一部はナチ化し、のちヒトラーユーゲントに吸収されて、その姿を消す。

日本のワンダーフォーゲル

ドバイ こぼれ ジェネ 月姫 キョウチ プイン プリプラ ハンドミキ キオス ストック スイートピ バランサー キクイン パンフ モカシン フィズ クォリティ そうめい ジンフ トップ デフォル きょくひ サーチナビム 村雨国内 ジンジャ 東へ西へ マルデ まっかり きうい ハナニ プラナ アプレッ ディスコ コック プルラン カイト ネイビー お手玉 とちひめ フォッグ ピョンヤン 金魚草 ヨーロッパ デコバギー ジャンク ノキオ ニューハフ デントデー ドール よもぎ

小史
日本には第二次世界大戦前のドイツとの国家的友好関係とその影響の元に、1933年(昭和8年)文部省内に「奨健会ワンダーフォーゲル部」が設けられ、国による健全な青少年運動として宣伝と普及が開始された。それらに触発され1935年(昭和10年)に立教大学ワンダーフォーゲル部発足されたのが日本での最初の学生団体である。その後、戦争をまたいで高度経済成長と登山大衆化を背景として各地の大学に広く設立されるに至る。

活動内容
日本の大学のワンダーフォーゲル部の活動は、若者が集団で徒歩を基本に野外活動を行うことを除き戦前のドイツの活動との共通性は高いとはいえない。

一般にテントや調理道具を持参し山小屋での宿泊を避け、出来得る限り自立的なパーティ(多くは十人以内、男女混成もしくはその別は場合による)を組み、縦走登山形式の合宿を主要な活動に据える場合が多い。またはそういった活動形態を伝統的に一つのあるべき姿とする傾向があるが、その活動実態・活動フィールドは各大学各団体ごとにまちまちである。

あくまで一例として、比較的近場の山岳地での春~初夏にかけての繰り返して行われる新人練成合宿(1~3泊程度)といったものから始まり、夏休みの時期の夏山縦走、つまり日本アルプスや北海道の山などの国内では比較的大規模な山岳地・山脈でのだいたい1~2週間に及ぶテント連泊形式の縦走登山を行う夏合宿(冬山合宿が無ければ1年で最も主要な活動)を経て、秋の中規模(2~5泊前後)な合宿(次代のリーダーを養成を兼ねている場合が多い)へと至り、冬の降雪期はスキーなどを行い、春休みには無(もしくは少)雪地での中規模な合宿を行う。また、各合宿時以外は合宿に向けてのトレーニングや準備・企画といった活動が精力的に行われる。以上のような活動が典型的である。

しかし、伝統的に冬山登山や、里山ワンダーフォゲル(里ワン)・島ワンダーフォゲル(島ワン)と称される活動も行う団体もある。さらに近年の野外活動やスポーツ・レクリエーションの多様化にともないそれらの活動実体は非常に多岐にわたる。それはいわゆる体育会に所属してる部であるか否かやサークルかといった大学内での存立形態の多様さおいても如実に現れている。