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洪武帝は明を建てるとすぐに科挙を行い

洪武帝は明を建てるとすぐに科挙を行い、大々的に人材を募集した。その後、一時期停止されたが、永楽帝以降は明が終わるまで継続されている。

明代では科挙を受験するには国立学校に所属する必要があった。彼らは生員と呼ばれる。洪武帝は首都に国子監と言う国立学校を設立し、地方にもそれぞれ府・州・県ごとに学校を設立した。しかしこれらの学校は後には単に科挙の資格を得るために在籍し、勉強をする所ではなくなった。またこれとは別に民間には社学と呼ばれる私立学校が存在し、農民の子弟に読み書き・計算などを教えていた。

生員になるに際しての試験があり、その後、第一次の地方試験である郷試がある。郷試に合格した者は挙人と呼ばれ、第二次の中央での試験である会試を受けて合格すると進士と呼ばれ、晴れて官僚になる資格を得る。更に殿試と言う皇帝の前での試験があるが、これは落ちる事は無い試験である。

官僚になりたがる人数は非常に多く、生員だけで50万がいたとも言われる。それに対して合格するのは毎回3?400人であり、何度も受験している間に白髪になってしまった者もいた。

洪武帝は多くの功臣を粛清する一方で、自分の子供達を各地に「親王」(単に「王」とも)として封建して王府(おうふ)を設置させて地方に軍隊とともに駐屯させて現地を治めさせ、政治的基盤を固めようとした。これには(1)親王自ら兵を率いて国防の先頭に立つ。(2)皇族を繁栄させて万が一の皇統断絶を回避する。(3)皇族の維持にかかる費用を地方に負担させる。(4)儒教的な封建体制再建を確立させる。といった目的があったとされる。

だが、皇太子である朱標が父より先に亡くなり、その息子で洪武帝の孫の世代にあたる建文帝が即位すると、これらの叔父が皇位を脅かす事を恐れて取り潰しを図った。だが、逆にこうした叔父の1人であった永楽帝によって滅ぼされてしまう事になった。永楽帝は「親王」の軍事的権限の削減を図ったものの、父の洪武帝同様に自分の子供達を封建する事には積極的であった。更に宣徳帝の時代に漢王朱高煦が反乱を起こしたのを機に軍事力の全面的剥奪に踏み切った。また、自己の開墾地以外の土地の私有を禁じて禄米支給へと切り替え、更に自由な外出や任官までも禁じたため、親王や郡王は事実上居城に蟄居状態に置かれるようになった。

その後、各地に王や郡王(親王の諸子)の増加によって支給する禄米が増加して明の財政は悪化した。そこで皇族のために「皇荘」と呼ばれる荘田を設置して経費を補わせ、また皇荘の一部は皇帝からの下賜された特例としてそのまま皇族の私有の荘田にする事を許した。だが、親王や郡王は役人が自分達を恐れて干渉できないことを良い事に一種の地主と化して皇荘内において思うままに農民からの租税や土地そのものの収奪を行い、そこで得た収益を元手にさらに高利貸しなどの商業活動や土地の集積を進めたり、郷紳などからの投献(寄進)を受けたりして皇荘へと編入していった。このため、官田が王達によって奪われて財政収入が減少するという事態が生じたため、1470年には皇荘の税率を定めて実際の管理を地方官に行わせる事を定めたものの、皇帝自らが王達に特例を認める事がしばしばであり、何の解決にもならなかった。特に万暦帝の実弟である潞王・朱翊鏐や3男の福王・朱常洵などは万暦帝の寵愛を背景に数万頃に及ぶ大地主と化して農民に対して更なる収奪を行ったものの、皇帝の不興を買って粛清される事を恐れた官僚達は具体的な対策を打とうとはしなかった。こうした状況は人々に強い不満を抱かせ、明末の農民反乱の標的に王や郡王があげられることになった。

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2009年01月06日 15:14に投稿されたエントリーのページです。

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